承認欲求が強すぎることで、人間関係(組織)に不和がおこることがあります。
┃承認欲求とは?
平たく書くと「認められたい欲求」です。
または、孤独感が強すぎると「同じである安心」を求める。
┃孤独感が強く承認欲求が強いと
人の意見に耳を傾けられません。
感情的に自分のことにしか目を向けられないので、他者との距離感や「違うこと」に極度の不安などがあるためか、我が強い人という評価や、出ている結果をみて判断する目線がもてません。
鳥瞰、俯瞰ができず、独りよがりです。
┃承認欲求が強い人の話・記事
技術や勉学に関する解説や私のように文章が下手くそな記事は例外です。
結果だけ伝えることができません。どうしても感情に偏るため、理路整然と全く出来ないことから、感情的な問題の冗長した言い回し等、同じようなこと、論理性がない「ただの個人的感情的な文章」に終始します。
自分はこう思った、相手はこうだからダメだ!と何とか扇動して「同じように思う人」や「同じ考えをしてもらう」ために終始していて、見当違いな文章や陰謀論のような意味不明な主張・文章になる傾向が強いです。
これも孤独感が生み出している臆病な状態です。こういった人は、生まれや育ち、「考え方、受け入れ方」に問題があるのかもしれません。
小中高生くらいであれば、社会生活による他者との違いを学ぶ段階が自我伸張期(親目線では反抗期)にあるためこういった承認欲求に部分的に関与する「他者との違いを学ぶ機会」は多かれ少なかれ自然なことです。ただ良い年齢になっても永遠繰り返している場合は、この自我伸張期を上手に乗り越えることができなかった人です。
また、本人が自力で気がつけるまで、周りは見守ることしかありません。通常の人は、現実と理想の違いに葛藤(自我伸張期)を経験し、「現実と理想の違いを再構築し」社会性、社交性を得ます。
良い大人でこのように繰り返している人は、単純に再構築できなかった可哀想な人です。
省みる能力、他者との考え方の違い、多様性、民主主義など、最低限の社会生活のための学が備わることがなかったのですから、いつまで経っても人間関係の良好な構築ができるようになる成長は見込めません。
このパターンでは、違法状態であっても「今までこれでやってきた!」など、勝手に自爆発言をし、さらに立場悪くする人もいます。
┃外科医の人
家庭に問題がある子どもを支援している方ですが、そこだけ聞くと素晴らしいのですが、こともあろうに「暴力」をもってわからせるという人がいました。
この方は、施設出身で両親がいません。承認欲求も強いと私はみました。
暴力を持って血が出ること、痛いことをわからせて、それで子どもはわかってくれる。と確信しており、他の見方ができません。
暴力を受け取る子どもは、恐怖に怯え、反抗すること、意見をすることによる報復行為を恐れている結果、「被害に合わないために従順に従っているだけ」です。
また、「どのような家庭環境の人であっても、親がいないよりは良い」と考えている人でした。
私はそうは考えません。親が居ない人に親の良さがわからないように、親がいる人に親がいない気楽さもわかるわけがないです。食べたことがない食品の味を明確に分かる人なんて存在しないですよね。それと同じです。多種多様で人は違うのですから、同じ経験の中に得る糧の量も違いがあって当然で、同じ考えにならないことも当然です。
児童福祉法違反もあるように虐待をする親もいる状態、社会の中で、一概にいないよりは良いとは限らないと思います。がこの外科医の人はこの主張に憤慨をしていました。
理由はどうあれ、上記の内容は、個人間の見解の相違では特に押し付けるつもりもなければ、聞き入れるつもりも私はありませんでしたが、暴力行為にでれば、法治国家の上では許されません。傷害事件にもなり懲役15年です。また児童に対する行為なので児童福祉法では通告義務あるので、疑いあるとして私は通報しました。
┃ネットの人
コレも同じように非常に悪い連鎖に陥っている人はいます。
例えば、365日毎日ネットゲームで皆勤賞と誇らしげに語り、(本人の主張)ゲームをしているというよりは、人の悪口を年がら年中言い続け、争いしかしていません。遊ぶためにしているのではなく、自我を押し付けるために違う意見の人を探し出し攻撃するためにしています。
目的が遊ぶためではなく、争うため、私刑行為をするためです。
争いになるのも単純に、自分を認めてもらいたいこと争うことで関係ない人に沢山話し、巻き込むことで「同情する人」や「被害者」のような人を探し出し、群れようとします。
孤独感のためこういった行動に至り、私刑行為を繰り返し、やめることもできません。
それどころか、故意(わざと)にそういう状況が発生するように仕向け、囮捜査と主張している始末です。
ネット上の知り合いなので尚更深く付き合うことをしないこともあれば、面倒なので「はいはい」と長いものに巻かれる、余計なことを言うと「攻撃される」ことから大多数はこのように華麗にスルーしていることがあります。
┃やめるべきことを学べていない
悪口もまた暴力と同じく、自信がなく、孤独で、怯え、自分の自信の無さ、能力の無さから、解決方法を他に持ち合わせず、短絡的に繰り返す行為です。
見るべき原因や効果をみることができていません。
そして悪口、行為も孤独感を埋めるために話し相手、ひいては「仲間」を作り出し、孤独感を埋めようとしています。
周りの人は社交性、社会性からも「面倒」であることからいい加減に「はいはい」と肯定してしまうことがあります。それを認めることは行動学でいう好子を与える結果になり、逆効果になります。そのため、尚更継続し続け加害行動を繰り返します。
いい加減に肯定することは、問題者の間違いを正しいとしてしまうことです。
可哀想な点としては、周りに恵まれておらず安易にされることも大きくあります。周りは親ではないので、教育の義務もなく、そんな人に深く関わること自体が大損なので、諭す必要もないので、結果繰り返す以外にありません。
そして問題者を心から認めてくれる人はいません。いつまでも繰り返し続けることでしか、孤独感を埋めることが出来ません。
周りが向かい合わずあしらう結果、そのやり方が良かった、と思うことで、同じ方法を取ることしか出来ない状態です。
※向かい合うほうが損です。向かい合わないであしらい、関わりを増やさないことが一番無難です。
┃宗教でも同じ
何とか周りに認めさせたい。
それが強すぎる人は元々他のことでも周りに承認されず、認められず、何が原因であったのかを考えることをやめてしまったか、考えられなかった人です。
社会でよく批判される宗教団体の多くは、こういった人に役割や役職を付与し、「承認欲求を満たし」さらに認められたいがために強引な勧誘行為や発言、扇動行為をします。
なので当然トラブルになり、目立ちます。
┃選挙でも同じ
民主主義による投票の結果が、自分の思った通り、自分の支持した政党が与党になれないこと、自分が否定している政党が議席を獲得することが許せません。
逆にいうと自分自身が少数派であって、周りと違うのですが、民主主義の原則やフェアな結果に目を向けることが一切できず、現実を受け入れられない結果、陰謀論やその他持ち出し話しになりません。
┃孤独・承認欲求が強い人の話題
承認欲求が過剰にあるため、政治ネタや宗教ネタ、人の悪口が話の主題になってしまうのが顕著です。
孤独感、承認欲求が強すぎる結果、いつまで経っても悪い負のスパイラルを繰り返し、周りがどうみているのかもわかりません。
そしていつまでも得られない心の空洞から、終わり無く繰り返します。
┃人の話を聞けない
自分のことをどうしても認めてもらいたい結果、話す必要が無いことや、自分に都合が良いことを言ってくれた人の話だけを引用し扇動します。
異を唱える意見があると、何とか嫌がらせやその他により潰そうとしてきます。
そのやり方としては、幼児がするような行為で、悪口陰口をいつまでも垂らしているだけです。
こういった人の対応は、しっかりと白日の下に晒し上げて徹底的にする(裁判を使ってでも)ことか、一切関わらないようにするしかありません。
┃度が過ぎる人はようするに
社会不適合者です。多様性を認められません。自分が思った通りではないと許せないんです。
共存社会として、他者と円満な関係を築けるわけがありません。いつまでたっても井の中の蛙にあり、病的なまでです。
┃何とかしたい周り人
関わらないことです。
関わらない上でお別れする時は、しっかり話する上で録音を残したりすることが法律上や考えられる被害の上では無難です。
こういった人は関わりをやめると、やめようとする人の悪口、陰口、陰謀論や洗脳、その他ありとあらゆる被害妄想を持ち出して、周りの人を扇動し嫌がらせをします。
嫌がらせという自覚は当然ありません。孤独なので、これ以上、自分の周りから人がいなくなることを恐れ、離れる人を悪者に仕立てあげ、何とか自分が正しかったことにすることに身を削ります。
そしてそれが逆効果とも気が付きません。なので、録音や記録を取った上で、揉めた時、民事調停や場合により民事訴訟、刑事告訴によって、社会の力を使って、被害にあわないようにするしかありません。
出会ってしまったことが運の尽きです。
┃何とかしたい本人
まずいないでしょう。気がつくことも出来ないはずです。
ヘイトスピーチ禁止!といいながら、選挙前から選挙後、何年と繰り返している状態、自身の支持政党が議席獲得できず、与党になれないことに、見当違いな陰謀論やその他を言っているわけですし、わかるわけがありません。
┃承認欲求は悪いものではない
子どもに対して承認を与えることで、良い方向に育てるという意味では、行動学で考えても悪いことではありません。
悪い形で承認を与えたり、与えなかった結果、上記のような社会不適合者を作り上げます。
┃私が特別に承認欲求はない理由
ここで自分語りですが、私の承認欲求の度合いは低すぎるため、逆に良くないとすら出ます。がちゃんと理由あります。
民法や刑法を勉強していることで、良いこと悪いこと、相手の権利、自分の権利を知っている。
権利を知っていることから権利侵害のリスク理解、社会性や仕組みの理解があり、必要以上なことはトラブル回避のためしない。
自立して生活している上で、事業主であり、人から求められる側(依頼される側)にあり、必要以上に承認され、逆に依存的に頼まれ、任されすぎて、責任が増えることを避けている。
感情と論理を切り分けて考えられるため、混ぜて話をめちゃくちゃにしない。
他人に承認されようがされまいが、結局は「社会通念上のルールに従った結果」以外でないので、認めてもらおうと認めてもらえなかろうと、そこに固執していてもなんの意味もなく、逆にトラブルの種である、という結論を私は出しているため、承認されようとしません。
社会のルールに従いやることやってれば、我が強くあれこれ人と論争することも、必要以上の意見や気持ちの問題も言う必要がそもそもないんです。個人の相手に認められなくとも社会が認めざるをえない人になればいいだけなので、承認欲求を他人に求めていません。求める相手が私は違う結果、「個人間の付き合いでの承認欲求の度合い」では全くというほどないです。
┃感想
というところですかねー。承認欲求の強さは特別大きな問題にはならないと思います。
例えば、仕事を頑張って認められようとすることで地位も所得もあがることがあります。
そこに孤独感が合わさり、孤独感を埋めるために、多様性を認めることもできない狭い視野の人は、自我が発達しきれていない上に社会性も得ていない、精神の幼い子どものまま、幼児退行みたいな感じにみています。
ちょっと辛辣に書きました。
子どもといってもしっかりした精神を持ってる人はたくさんいます。本当に小学生?中学生?というほど、将来までしっかり考えている子どもがいる一方で、40代50代など情けない大人(人の親)も沢山います。